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続・武士の実力(三十三間堂通し矢からの考察)

もう30年くらい前でしょうか?テレビで「通し矢に挑戦」という企画があり、私は漫画の通し矢物語でそのことに興味を持っていましたので、興味新々でその番組を見た記憶があります。

 

現代の弓の第一人者が弓具店と協力して、カーボンやグラスファイバーを使ったハイテクの弓、矢を使い通し矢に挑戦しました。あまり通せなかったと言うおぼろげな記憶しかありませんでしたが、ネットで調べるとその番組のことはすぐに見つかりました。

toushiya_3その時の映像です。

 

江戸時代から続く老舗の弓具店(神田に本店があるそうです)がテレビ局とタイアップしてやった企画のようですが、結果として100本射たうち通ったのは9本でした。弓道人口は少ないとは言え、現代(30年前当時)の技術を駆使して作った道具を高名な弓道家が使って一割も通せなかったのですね。

 

ウイキペディアによると、江戸時代に通し矢の記録が更新されていた時期の成功率は概ね60パーセントを越えていたのです。(中には70パーセント越えも・・・、一昼夜通してです。)驚きの数字だと言わざるを得ませんね。

 

丸一日その強弓を引き続けるということ自体、私には想像もつかない程の当時の武士の強靭さをあらわしているように思います。

 

朝岡平兵衛さんが51本通して天下一の額を奉納したのは関ケ原の合戦の6年後のことでした。朝岡さんは戦国武将として名を馳せた豪傑だったそうです。この10年ほど後に大坂冬、夏の陣があります。彼がそこにいたのかどうかはわかりません。

 

記録が何千本と増えて行った頃には、藩の名誉をかけて才能のある武士を若い頃からこの通し矢の為に英才教育を施して代表となる弓道家を育てて行くようになったようですが、慶長年間にはまだそこらへんの豪傑が我も我もと天下惣一目指して挑んで行ったのでしょう。

 

つまり数百本通せるくらいの武士はたくさんいたと言う事になります。武士は凄かったんですね。

 

戦国の世が終わったばかりですから、戦で命のやり取りをして生き残って来た強者が大勢いた時代でした。そういう時代を生き延びて行くにはそれは大変な修行を積んだのでしょう。負ければ命がない・・・、まさに命がけだったんですね。

 

徳川の時代になり戦争はない平和な世であったはずですが、この通し矢の記録を作ることが天下一と言われるようになると、それに挑戦して敵わず、藩の名誉を穢したとして切腹して果てた武士も多かったそうです。平田先生の「弓道士魂」によると、慶長年間だけでも25名が切腹した、とあります。(出典は不明です)

 

スポーツのような競技かと思いきや、まだまだ命がけの争いをしていたのです。オリンピックの金メダリストとて、本当に命をかけて戦う訳ではありません。そこに違いが生まれるのでしょうか?

 

例えばハンマー投げで世界を制した室伏広治さんのような人を、若い頃から通し矢の練習にはげませれば昔の和佐大二郎と競うような記録を作れるのでしょうか?ちなみに和佐さんは6尺を越える大男だったそうです。181センチ以上・・・、当時の日本人の平均身長は156センチ前後だったと言われています。

 

今ならば(平均身長は171センチほど)1メートル95~2メートルくらいの感覚でしょうか?ただ当時記録を作っていた武士たちがみなそのような大男ばかりだったわけではないでしょう。

 

かのローマ帝国の軍人たちもガリア人に比べれば身長は低かったらしいですが、鍛え抜かれた強靭な体躯を誇っていたそうです。スパルタ人もギリシャ諸都市最強だったと言われていますが、ミケランジェロの彫刻や、古代ギリシアの彫刻よりもはるかに筋骨逞しい肉体を持っていたのかも知れませんね。

hherakuresuヘラクレスspartaarchmus020スパルタ戦士

 

通し矢は全国的な流行となり、浅草にも江戸三十三間堂が創設され、幕末に至るまで京都よりも多様な(大矢数だけではなく)種目が行われていたそうですが、京都の記録を上回ることはありませんでした。

 

東大寺でも(若干の距離などの違いはありましたが)通し矢が行われていて、天保13年にはのちに新選組に入隊した安藤早太郎(当時挙母藩士)が21時間の間に11500本射て8685本通しました。三十三間堂とは仕様が違うため新記録とはみなされませんでしたが、凄い記録だと思います。

 

彼は紀州日置竹林派応心流の射術の使い手だったそうで、脱藩後、新選組に入り、あの有名な池田屋事件で負傷し、その傷の為に一か月後に死亡したそうです。

 

明治に入り、明治32年に慶応大学弓術部の初代師範であった若林正行が4457本を通したのが記録として残っているものでは最後だ、とウイキペディアには書かれていますが、これも出典は不明です。

 

私がネットで見た限りでは、彼は摂津高槻藩士弓術・砲術師範の長男で、18歳の時に日置流免許皆伝を受け、父の後を継いだとあり、明治28年に京都三十三間堂で100射試みて55本を射通したとされています。

 

彼の父、若林泰次郎正宣は天保9年(1838年)に京都三十三間堂で100射中91本を通したそうです。

 

安藤早太郎さんは実際に命のやり取りをして散りました。若林親子は実戦は経験しなかったかも知れませんが、幕末、明治とは言え、武士たるものは命を懸けて戦う心構えを持って武芸に励んでいたのでしょう。

 

30年前に高名な弓術家たちがチャレンジして100射中9本通したことと比べて見てもあまりにも差があり、また昔の武士はそれを一昼夜続ける強さがあったというのは、もう異次元の強さとも思えてしまいます。いやぁ・・・、どんだけ強かったんでしょう・・・?

 

「氷川清話」からの引用ですが、勝海舟さん曰く「本当に修行したのは剣術ばかりだ・・・ほんに身体は、鉄同様だった。」・・・、殆ど寝ずに修行したように書かれています。

 

「・・・、昔の武士は、身体を鍛えることには、よほど骨を折ったものだよ。弓馬槍剣、さては柔術などといって、いろいろの武芸を修行して鍛えたものだから、そこでおれのように年は取っても身体が衰えず、精神も根気もなかなか今の人たちの及ぶところではないのだ。」

 

等々・・・、また、武士はいざとなれば命を投げ出す覚悟があったということも言っています。平和な時代に生まれ育った私たちには計り知れないものがありますね。

 

現在は通し矢と言うと、成人の日前後に弓道の有段者たちが晴れ着を着て三十三間堂の庭で60メートル先の的に射かける行事の事を言うようになったようです。

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サムライの世には全く違う通し矢がここにはあったんですね。

 

蛇足ですが、「矢継ぎ早」と言う言葉は、京都三十三間堂の通し矢で次から次へと矢を継いで速射していたことから生まれたとも言われています。真偽のほどは解りませんがなんとなく解るなぁ・・・。

 

 

 

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