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古典と近代(放送大学の講義から)2018

車を運転しているときは大体音楽を聴いていますが、時々FMに切り替えてみます。放送大学に合わせてあります。ちょっと聞いてみて面白そうだとそのままラヂオを聞きながら運転します。

 

先日もそのようにしてちょっとFMに切り替えてみました。「日本文学における古典と近代」という授業でした。聞いていたらなんか興味深く、そのまま聞き続けました。

 

丁度第一回目の講義だったようで、序論から始まりました。そして「文学史の不思議」について講義が始まります。

 

「文学史の不思議の第一は、ある人物が生きているのと同時代に書かれた作品だけが、その時代の文学状況、ひいては文化状況を代表するのではない、ということである・・・」と述べて行きます。

 

「たとえば、2010年代の文学史を・・・(中略)・・・記述するとすれば、現存する文学者たちの『新作』を紹介することになる。」

 

「けれども、2010年代で最も広く、あるいは深く読まれている作品としては、明治時代の夏目漱石や森鴎外であったり、大正時代の芥川龍之介や白樺派であったり、昭和時代の太宰治や三島由紀夫であるかもしれない。・・・・」

 

「『文学史年表』に一回きりの記載をされるが、その後、「毎年、新たな読者を獲得し、場合によっては・・・・新作よりも大きな影響を現代日本におよぼしていることもあるだろう。それらは『近代の古典』と呼ばれて、今の時代を生き続ける」

 

なるほどなるほど・・・・・。そうだよなぁ・・・・、なかなか面白い講義ではないですか・・・。運転しながら聞き続けます。

 

「文学史の不思議さのもう一つに、後の時代の作品が、古い時代の作品に影響を与えるということがある。・・・・・・常識では、古い時代の作品が、新しい時代の作品に影響を与えるのであって、その逆は、まずありえない。ところが文学の世界では、このような逆転現象が、往々にして起こりうる。・・・」

 

ふぅ~ん・・、そうなんだ・・・、例として「徒然草」が取り上げられます。

 

「『徒然草』は兼好という文学者に」よって、十四世紀前半に成立したと考えられる。・・・・・ところが、『徒然草』という作品は、書かれてから百年間、忘却されていた。つまり、実質的には、だれの目も惹かなかった。」

 

「正徹という歌人が記した歌論書『正徹物語』(1448年頃)で、・・・・・その素晴らしさが認定された。文学史年表この年を『正徹物語』の成立した年としてのみ記載するが、『徒然草』が明確に認識された年としては記載しない。そこまでの記述は、年表には書ききれない。」

 

「やがて、『徒然草』は、応仁の乱を背景として、「無常観」の文学として、連歌師たちによって読まれた。・・・・・江戸時代に入る前後で、教訓書として読まれ。それに基づく新しい作品が続々と書かれた。」こうなると、『徒然草』の本質は、「人生教訓」や「政治教訓」、あるいは「日常教訓」などに変化する。

 

へぇ~、そうだったんだね・・・。

 

「古典は、古典なるがゆえに、多くの読者から読まれる。読者たちは今を生きる自分たちに最も必要とされる主題を、古典の中から探し求め、それを見出す。時代背景や価値観の変遷によって、古典文学の主題自体が、変容してゆくことになる。」

 

そうかぁ・・・読む人、その時代、によって解釈にも差が出て来るし、主題自体も違う部分をとらえることがあるんだね・・・。作った人の本意とは違っても、読む人には大きな影響を与えるとらえ方が出来る事もあるわけだ・・・。ふぅ~ん・・・。

 

『徒然草』は、その作品を深く読んだ後世の読者に影響を与えるが、影響を与えた側の古典自体が、刻々と相貌を変えてゆくのである。さらに具体例を挙げてみよう。」

 

と、『源氏物語』、『伊勢物語』などが例に出されます。その後も「引用した作品が原典を凌駕する」、とか「遅れて来た古典」とか、興味深い講義が続きました。文系の人はきっと大学でこういう講義聞いてて知ってる事なんだろうな。 

 

ずっと理系でしたから、(おまけに日本で大学行かなかったし)あまり文学には造詣が深くもないわたくしです。古くから言われてきているのかも知れない事でも、私には全く新しい知識として入ります。「うん、なるほどなるほど・・・・・。」と聞いているうちに、思考が違う方向に漂って行きました。

 

これって音楽にも当てはまることがあるかも知れんなぁ・・・、芸術に、またいろんなことに共通しているかも知れないかもな・・・、と考えが巡りました。

 

また、文学にしても音楽にしても、はたまた物理数学の論文にしても、毎年数知れぬ新作、文献が出て来ます。その中で、ずっと読み継がれ、或は聴き継がれ、引用され続けるものはほんの一握りの作品でしかありません。

 

あとになってその発掘されたり、のちの研究によって貢献度がたかまったり、似通った事象はいくらでもあるかも知れませんね。

 

逆に、発表された時には一世を風靡したものの中でも、その一瞬輝いたものの、全く後には残らず忘れ去られて行くものがどれだけ多いのだろうか?

 

その中でずっと残って行くクラッシック音楽やジャズ、ロックミュージック、ブルース、ビートルズやユーミンはもう既に近代の古典と言ってもいいのでしょうか?サリンジャーやスタインベックなども『近代の古典』作家と言えるのでしょうね。ハルキストにとっては村上春樹さんも間違いなくそのような作家なんだろうな、私には解りませんが・・・。

 

殆どの新作が陽に当たることもなく消えて行くのでしょうが、例えば物理学で言えば、それこそ失敗に次ぐ失敗を重ね、それを糧にして真理に近づいて行くものです。きっとすべての作品になんらかの意味があるのかも知れませんね。

 

音楽の世界でも毎年数知れぬオリジナル曲が創られ演奏されるけど、殆どの作品は多くの人に聴かれる事なく消えて行くんでしょうね。私も正直オリジナルばかりだとちょっと聴いてて辛い時があります。でもその曲たちにも作られた意味があるのでしょうね。

 

私の思考は流れ流れて、昔長女が中学生の時に(将来の就職に関してのアンケートだったか?)親の意見を書いて提出するものがあって、「お父さん、これ書いて。」と言われて協力したことが思い出されました。

 

「世の中にはいろいろな職業がありますが、どんな職業にも役割と言うものがあり、全ての役割には必要性がきっとあってそこにあるのだと思います(ま、ちょっと異論もあるかと思いますが、それは置いといて・・・)。「職業に貴賎なし」と言います。ですから皆さんがどんな職業についたとしても、私はそれを大事に全うしてほしいと思います。」

 

そんな事を書いたなぁ・・・、なんて思い出しちゃった。ちょっと思考が飛び過ぎだね(笑)・・・。

 

 島内裕子(放送大学教授)著「日本文学における古典と近代」

 

 

放送大学の講義に関してはこの本から引用させて頂きました。

 

あんなに勉強嫌いだったわたくしですが、受験や通信簿と関係なくなり、歳も重ね、なんのプレッシャーもなく聞いていると、熱心に聞き入ってしまうという、「文学史の不思議」に聞き入る「人間の不思議」でした(笑)。

 

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