新原歯科医院

院長ブログ

カテゴリ: アメリカの思い出

ハロウインと生卵

今朝、車に乗ろうとして駐車場へ行きました。すると・・・。

 

 

ちょっと分かりづらいんですが、生卵が私の車にぶつけられてありました。まいったなぁ・・・。生卵って、こびり付いて取れないんだよなぁ・・・。濡れスポンジでごしごしこすって洗うのがこの朝の仕事になりました。

 

ハロウインの真似事をして楽しむのはいいけれど、人様に迷惑をかける事は真似しないでほしいものだ。

 

ハロウインの時に、子供たちが近所の家を訪ねて「トリックオアトリート」と言ってもお菓子をくれないお宅には、玄関に生卵を投げる、などの報復をしてもいい事に(いいことなのかどうだか知りませんが)なっています。

 

それが高じて、関係ない車にも卵を投げつけて騒ぐ学生たちもいまして、私がアメリカにいたときには、まるで車が卵の絨毯爆撃を受けたような被害にあったこともあります。あの時は洗車が大変だった・・・。

 

それに比べれば、今回の生卵一個なんて可愛いもんですが・・・。でも良い子の皆さんは絶対に真似をしないようにしましょうね!きっと良い大人になれませんよ!(笑)

 カテゴリ:アメリカの思い出, 日々のこと

breakfast in 1970`s

朝ごはん、英語でBreakfastといいますが、その語源は「Fast」(断食)を「Break」(破る)というところから来ているそうです。夜の長い(日中の食事の間隔からすれば長い)断食を終える食事・・・、と言う事なのでしょうか。

 

アメリカの庶民の代表的な朝食と言えば、Two eggs overeasy with hashbrown and toast、でしょう。自宅ではシリアルとフルーツも多いかもしれませんが、カジュアルなレストラン(デニーズのような)ではやはりTwo eggsが主流だったと思います。(40年前はそうでしたけど・・・)

 

 

こうやってトーストの代わりにパンケーキだったり、ベーコンやソーセージを添えたりもします。私は大好きでよく食べました。

 

私が留学していた当時、テレビで「Overeasy」と言う題名の人気コメディー番組があったくらいです。主人公はカジュアルなレストラン(コーヒーショップとも言いますが)のウエイトレスでした。

 

深夜にも仕事をしている、(例えば長距離トラックの運転手の人達とか)人達にとって終日営業のレストランがある事はとてもありがたい事ですが、そういったこともあり、街道沿いにはそういったお店が多くありました。

 

 

看板に「24hours breakfast」と書いてあるお店がよくありました。ラスベガスなんか不夜城と言われるくらい、夜も昼もありませんから終夜営業の店だらけでしたね。

 

 

そういうコーヒーショップで夜中でもAmerican Breakfastの「卵2個、両面焼き」メニューは人気の定番料理でした。

 

 

最近はサニーサイドアップもよく出るのかなぁ・・・?昔はあまり頼む人いなかったけど。

 

 

トーストはライブレッドだったりフイートブレッドだったり、ビスケット(お菓子ではありません)も好きでしたね。パンケーキを頼むと、シロップも幾つかの種類があって(メープルだけでなく、ラズベリーとか・・・)それもいくらでも好きなだけかけられるボトルで来ましたから、たっぷりとかけて・・・。こりゃぁ太る筈だわい(笑)・・・。

 

 

私は付け合わせのハッシュブラウンポテトが大好きでした。元々(今でもですが)コロッケ大好きな子供でしたが、アメリカにはコロッケがなく、このハッシュブラウンが多少なりともコロッケを彷彿させるテーストがあったんでしょう。

 

 

マックのハッシュポテトとは少し違いますが(マックのはハッシュブラウンを食べやすく、簡単に出せるようにしたものなのかもしれません)やっぱり揚げ物が好きなんだな。向こうでは日本のソースなどなかったからケチャップをたっぷりかけて食べました。

 

外食するときにはこういうメニューを取りましたが、大学入学当初、寮に入ったときには学食のスクランブルエッグが好きだったなぁ。

 

 

寮のキッチンでは簡単にできるオートミールばかり作って食べてました。ただ水混ぜて小鍋で温めるだけ、ちょっと塩をふりかけて、目玉焼きをのせたりして・・・。これは日本に帰ってからも懐かしくって時々食べてました。私の子供たちも小さい時は食べさせられてたな・・・、作るの簡単だから(笑)。

 

 

でもやっぱりご飯と味噌汁が恋しくなるものです。寮を出てアパート借りて住み始めてからは、コメを炊いて、初めは炊飯器もなかったから、普通の小鍋で炊いてました。結構うまく炊けましたよ(笑)。

 

始めはNapa郡のセント・ヘレナと言う田舎町の小さな大学に行ってたんですが、サンフランシスコまで、1時間半くらいかかったのかなぁ、日本人町のスーパーで味噌とか、だしの素とかを買って来て、自分で初めて味噌汁も作りました。いやぁ!美味かった(笑)。

 

1973年にカリフォルニアに渡り、2年間は日本へ帰りませんでした。まだドルが360円から308円になって、そして変動相場になったころで、オイルショックで円が上がりましたが、それでも1ドルが260~300円くらいだったと思います。飛行機代ももったいなかったからなぁ・・・。

 

40年前といえば、半世紀近いですものね。隔世の感があります。日本も変わったし、1983年に歯学部を卒業して日本に帰って来ましたが。きっとアメリカの食文化も様変わりした事でしょう。今の状況は全く知りません。今の人達は朝食に何を食べてるんでしょうか?

 

2年たって南カリフォルニアのラシエラ・カレッジに転校することにしました。一度日本にも戻ろう、と1975年夏休みに一時帰国しました。2年ぶりに自宅の部屋で一夜を過ごし、6畳間ってこんなに狭かったんだなぁ・・、なんて思いながら寝付いた事でしょう。朝起きると母が朝食を準備してくれていました。

 

あぁ、久しぶりに美味しい味噌汁とご飯を食えるぞ・・・!と思っていました。台所に行きテーブルに着くと、そこには・・・、ハムエッグとトーストが並んでいます(笑)。

 

そういやぁ、日本にいた頃、高校のころとか自分でトースト焼いて食ってたっけなぁ・・・(笑)。10年前に他界しましたが、母親の愛情あふれる親心だったんでしょうね。ま、いいか・・・(笑)。美味しくいただきました。生前の母親とこんな話したことなかったなぁ・・・。

 

 

やっぱりこれだよなぁ・・・。朝、味噌汁の香りが味わえるって幸せな事ですねぇ・・・。

 

 

 カテゴリ:アメリカの思い出, 未分類

モニュメントバレー

アメリカ西部にフォーコーナーズと言う場所があります。50州あるアメリカ合衆国の州境の中で、一か所だけ4つの州の州境がある場所です。

 

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北にユタ州、コロラド州、南にはアリゾナ州、ニューメキシコ州がある一点です。何もない砂漠の一か所に記念碑とお土産物屋さんがあります。

 

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そしてその近くにモニュメントバレーと言う名所があります。昔の西部劇でよく使われた場所ですから、知らない方でもなんとなく見覚えがあるかも知れません。

 

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ここにはアメリカ先住民のナバホ族の居留地があります。英語でreservationと言いますから、保留地とも言うようです。アメリカのインディアン(この言葉は今は使うべきでないとされているようですが)居留地のなかでは一番広いものだそうです。

 

そしてその地域に私の行っていた大学の病院がありました。病院には歯科もあり、私たちロマリンダ大学歯学部の学生は卒業前に1か月間そのサテライトクリニックで治療することが臨床実習の必須科目になっていました。

 

1982年、私は2人の同級生とモニュメントバレー・アドベンチスト・ホスピタルに派遣されました。貴重な体験をさせてもらいました。

 

そこはアメリカの中の外国、ナバホの国でした。Navaho Nation として一定の自治権を持ちその土地を領有している一つの国です。伝統を引き継いでいくことを大切にしているナバホカントリーでは子供たちは英語を話せませんでした。(当時のことです。今はどうか知りません)ナバホ語で育ち、(おそらく)学校に行くようになって英語を学び話せるようになります。

 

また1980年代の当時は老人たちの中にも英語を話せない人達がいました。西部劇に出てくるようなお話の中にはまだ100年もたっていない事件も多かった時代です。ブッチ・キャシディーがワイルドバンチを作ったのが1896年、南アメリカに行ったのが1901年だそうですから、その頃のナバホの子供が居留地でナバホ語で育ち英語を習わぬまま老いていったと言う事なんでしょう。

mv2 いやになるくらい真っ直ぐな道が続きます。

 

病院内の歯科のスタッフ(歯科助手)は殆どがナバホの女性でした。私同様に彼女たちにとっても英語は第二外国語(勿論私よりはるかに上手ですが)であり、英語が下手で顔の系統が似通っている私には親近感が湧くようで、とても親切にして頂きました。夜には併設されている体育館で一緒にバスケやバレーボールをして楽しみました。

 

ここへ行く途中にフラッグスタッフと言う町があります。標高2000メートルの高地にあり、よくスポーツ選手が高地トレーニングに行く場所なので名前は知れて来ました。ジャズで有名な「ルート66」と言う歌がありますが、その中にも「Flagstaff of Arizona・・・♪・・・」と、歌詞にその名前が入っているようにルート66という幹線道路沿いにあります。

 

モニュメントバレーはそこを通って300キロ弱ですね、フラッグッスタッフほどではありませんが、標高1700メートルの高地です。ちょっと走ると息苦しくなります。インスタントラーメンをいっぱい持って行きましたが、沸点が低いため、ゆであがりが悪くあまり美味しくなりませんでした。

 

いろいろ思い出してくると話がつきなくなります。また別に機会に続編を書きましょう。ちなみに私が一か月過ごした病院はその後数年(?)内に閉鎖されたそうです。連邦政府のネイティブアメリカン援助のための補助金が大幅にカットされて経営出来なくなったためです。

 

殆どの患者さんはナバホの人達でしたし、彼らは経済的には苦しい生活を送っていましたから、その援助のお蔭で医療サービスを提供できたのです。去年から当医院で手伝ってくれている根本先生が教えてくれて初めて知りましたが、私の学年がモニュメントバレーの病院に派遣された最後の年だったんだそうです。それを知ってなんか淋しく感じたのはなんでなんだろうか・・・?

 

病院の写真などはネットでも見つかりませんでした。歴史の中に埋もれてしまったかのようです。

 

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毎年お祭りにこうして民族衣装を着て踊るそうです。日本人が着物を着てお祭りで盆踊りをするようなものかな(笑)?

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馬の話

一か月くらい前ですが、東陽町のヨーカドーに買い物に行こうとして車で行きましたら、渋滞に出くわしました。香取神社の祭礼だったのですね。(たまたまこの週末は亀戸天神のお祭りでした。)

 

参ったなぁ・・・、と思いながら「写真でも撮るか?」と何枚か・・・。

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お馬さんも出ていました。

20160807_141818

 

時々こういう行事に馬が使われます。ゆっくり動く行列の中、おとなしく待っています。すぐ後ろに人がいます。

 

私は大学時代に体育の授業で乗馬のクラスをとったことがあります。子供のころから馬が好きだったし、やっぱり西部劇などに憧れて馬に乗ってみたいとずっと思っていましたから、大学の体育に乗馬のクラスがあるなんて、これを逃すわけには行きませんでしょう?

 

カリフォルニア州リバーサイド市の郊外にあった大学には牧場のような敷地もあり、乗馬クラス用の馬たちがいました。まずは馬の手入れから学びます。ひずめの掃除、体にブラシをかけます。そして馬に鞍とくつわ(ハミ)をつけます。

 

そして騎乗。鞍はウエスタンスタイルです。

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良く見る乗馬競技にはイースタンスタイルの鞍が使われますが、アメリカの鞍には取っ手のようなものが付いています。

 

e-w 上がイースタン、下がウエスタンです。

 

この取っ手みたいなものは摑まるところではないのだけど、初めて馬に乗った私たちは落ちそうで怖くてついつい摑まってしまいます。

 

そして基本的な馬への指示の仕方を習い、まず歩くことから始まります。いやぁ、なかなか気持ちのいいものでありました。

 

そしてJog、(速足)です。人間のジョギングはゆっくり走る事ですが、馬のジョグ(トロットとも言うみたい)は並足で早く歩くことです。これが結構上下運動があって鞍がお尻に当たり痛かったです。

jog

 

そしてキャンター、軽く走ります。この方がお尻には楽でした。結構気持ちよかったですね。馬を走らせている気になりました。

cant

 

乗馬のクラスを2学期続けてとったのですが、2学期目は雨に祟られて半分以上実技中止となりまして、あまりそれ以上の事は出来ずに終わりました。やっと馬に乗せて貰った程度でした。でもギャロップをするにはかなり乗りこなせなければ無理のように思います。

 

galopギャロップ。全力で走られたら私たちはきっと振り落とされます。

 

こんなことを思い出したのも、あのお祭りの馬を見たからです。後ろの人、危なくないのかなぁ・・・?と思って見ていました。よっぽど大人しい、またよく調教された馬なんだろうな。

 

乗馬のクラスでまず厳しく言われたのは、決して馬の後ろを軽々しく通らない、と言う事でした。馬はただでさえ臆病なのに加え、目が両側についていますが、後ろに何か視線に入ると警戒して後ろ足で蹴る事があるのだそうです。

 

また、少々やんちゃな面もあり、わざと自分のお尻を人間に向けて蹴ることもあるんだとか・・・。ですからどうしても後ろを通らなければならないときは、おしりを手で触りながら、「今ここを通るよ」と馬に知らせて、さっと通るようにしなさい、と教えられました。

 

2度ほど授業中に馬がイタズラ(お尻を生徒の方に向けたのです)をしたことがありました。常に素人集団の私たちを守るためにまわりに注意を払っていた先生がそれに気づきました。

 

先生はその馬に近づくや否や、思いっきり馬の顔をぶん殴りました。そしてその馬にまたがり、走り出します。物凄い荒っぽい乗り方で走り回る事数分。(まるで西部劇を見ているみたいでしたよ)馬が疲れ切って、「すみません、もうしません!」っと言っているようでした。そして戻って来たのです。こうやって厳しくしつけないと何度もイタズラを繰り返すようになり、とても危険なんだそうです。いやぁ、凄かった!

 

もう40年前のことですが鮮烈に覚えているあの事を思い出し、いやぁ、この馬はホントにおとなしいんだろうなぁ?と感心したような、ちょっと心配になったような・・・、お祭りや何かの行事で時々見る景色なのですが、いつも私は不思議に思い、心配して見ています。

 カテゴリ:アメリカの思い出, 未分類

エッグノッグとペカンパイ・things that I miss so much

この時期になるとアメリカのスーパーではエッグノッグ(eggnog)が店頭に並びます。日本では売っているのを見たことがありません。アメリカ人向けのスーパーとかでは売るのかなぁ・・・。

 

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今でも懐かしく、飲みたくなる季節になりました。

 

あとはペカンパイ(peacan pie)だなぁ・・・。大好きでした。これも日本では見ないですねぇ。美味しいんだけど、あの甘さは日本人には受けないのだろうか?

 

peacan1

 

生クリームを乗せたり、

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アイスクリームを乗せたり・・・、

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ウワァー!美味そう~~~!温めたパイにアイスを乗せるとまた美味い!その融けた味がたまらないです。あぁ・・・食いてぇ・・・。

 

パンプキンパイは日本でも見られますが、私はあまり好きでないんです。あぁ・・・、ペカンパイ食べたい・・・。(因みに、パンプキンはパンキンと発音します。アメリカに行ったばかりの時に英語の出来ない外国人留学生のための英語のクラスがあり、そのクラスの先生が言っていたのを今でも覚えています。真ん中のPは発音しないんですって。今はアメリカでは軽く発音する人もいるかも知れません。イギリスでは今でも発音しないみたいです。)

 

向こうに住んでいた時はいつでも食べられるのでなんとも思わなかったけど、そう、その頃はカツ丼とタヌキうどんが食べたくって仕方なかったなぁ・・・。日本に帰ってくるといつでも食べられると思うから、別に気にもしませんが・・・。不思議なもんだわい。

 

ペカンナッツの味は微妙にクルミとは違うのです。

 

そして、もう一度エッグノッグ・・・。

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I miss them so much.

 

 

 

 カテゴリ:アメリカの思い出

絶不調症候群

根本先生と昔の話をしていまして、ゴルフに行った時のことなど懐かしい話で盛り上がりました。

 

学生時代には根本先生ほか、数人ゴルフ仲間がいまして、よくご一緒しましたが、それぞれ一人でフラッとゴルフ場に行くこともよくありました。

 

歯科大も最後の一年は殆どが臨床(患者さんに実際の治療をしました。)だったように感じるほど、クリニックに長くいました。

 

私は、だいたい午前に一人、午後に一人の患者さんの予約をとり、一日二人しか診ない事が多かったです。

 

たまに午後の患者さんが都合悪くなりキャンセルされたりすると、午後まるまるヒマになります。そんな時は迷わずゴルフ場へ行っていたような気がします。

 

平日ですから、ゴルフ場も空いていることが多く、一人で回ることもありましたが、やはりフリーで来ている人と組まされてプレーすることも多々あり、いろんな人と一度きりのゴルフをしましたね。

 

あの時代、近くのパブリックのコースのグリーンフィーは安いところで3ドル50セントくらいでした。映画を観るのが5ドルくらいだったでしょうか?映画に行くより安くゴルフが出来ました。

 

高いところでも10ドル程度だったように思います。アメリカのプロゴルファーが強くなるはずですね。子供のころから気軽にゴルフを出来るんですから。

 

関係ありませんが、テニスも学校や公園にあるテニスコートでただでプレー出来ました。日本では高いお金を払うか、区営コートの抽選に当たるのを待つか、テニスをするのも大変です。40年前から環境は日本と大きな違いがありました。

 

さてゴルフの話に戻ります。本当に多くの人とプレーさせてもらいましたが、あまりいやな気持にさせられた事はありませんでした。気持ちの良い人が多かったなぁ・・・。いつも楽しく話をしながらゴルフをしていたように思います。

 

そうやっていろんな人とゴルフをしてみて気づいた事がありました。殆どのゴルファーは、「今日は調子が悪い・・・!」と言いながらプレーをしていたのです。

 

これは、今、日本でゴルフをしていても共通しているかも知れません。「今日は絶好調!」と言う人はめったにいませんね。よくて「まぁまぁ・・」でしょうか?やはり「調子悪いよ~!」と言う人が多いですね。

 

みんな本当はとっても上手なゴルファーなんだろうなぁ(笑)・・・。たまたま今日は調子悪い人の多い事ったらありません。この点に関してはアメリカも日本も大差ないようですね。

 

それで私は昔からなるべくなら「今日は絶好調だ!」と言うようにしています。(あんまり酷いスコアの時はさすがにその言葉は使いませんが・・)

 

そうすると、「いやぁ、ほんとに調子いいねぇ」と言われることが多いのです。皆さん私の実力をよ~くご存じなんですね(笑)。多分自分のことよりも他人のことの方がよくわかるのかも知れません。

 

私はそんな風にして自分の実力が分かって来た事を思い知ります。ま、たまに100を切れる程度の腕前です。好調、不調なんてありませんよ(笑)。大したことないです。

 

でも皆さんのその日の調子を聞く・・・、これも密かなゴルフの楽しみ方の一つなのであります、ふふふ・・・。

 カテゴリ:アメリカの思い出, 日々のこと

ソニーオープン・イン・ハワイ

今朝はみぞれが降っていましたね。寒さ本番です。先週の週末にはアメリカPGAツアーのソニーオープンをテレビでやっていました。真冬の日本と対照的なハワイの風景が見られました。

 

日本の選手は全員予選落ち、(松山選手はセカンドカットでしたが、)残念な結果に終わりました。ジミー・ウォーカー選手がなんと2位に9打差をつける圧勝でした。

 

この大会は以前はハワイアンオープンと言う名前で、同じワイワラエカントリークラブで行われていましたが、1983年に青木選手が日本人として初めてアメリカPGAツアーで優勝した事で有名です。

 

その時の最終ホールでの劇的なチップイン・イーグルの場面が試合の中継の合間に何度も流されました。

imgres若いですねぇ・・・。

 

待つかしい映像です。私のアメリカでの最後の年で、(その年の9月に10年間の留学生活を終え、日本に帰国しました。)あの試合はテレビで生中継を見ていたのです。

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あのシーンはよく覚えています。テレビの前で興奮して見ていました。優勝、悪くともプレーオフとみて待っていたジャック・レナー選手のあの悲しそうな、いったい何がおこったんだ?と信じられないような表情が、先週の中継で繰り返し放送されたのを見てよみがえって来ました。

 

その数年前にUSオープンでジャック・ニクラウスと死闘を演じ、アメリカ中に名前を売った青木選手でしたが、この勝利でその実力は本物であることをみんなに知らしめたのです。

 

その頃から中嶋常幸選手なんかも出てきたし、当時の日本のプロゴルファーたちは結構(勝てずとも)いい成績を上げていましたよね。

 

あの頃の選手たちは、「芝が違うから・・・、」とか「コースが難しいから・・・、」とか言わなかったんじゃないかなぁ。今回、松山選手はMDF(Made cut, did not finish)でしたが、「自分に力がないんです。」としか言いませんでした。へんな言い訳をしないところは彼らしいです。

 

アメリカの選手もよく日本に来ましたが、高麗芝を物ともせずにいくつものトーナメントに勝って行きました。本当に強い、と言うことなんだろうと思います。

 

やはり日本の男子ゴルフ界のレベルは(残念ですが)下がって来ているんでしょうね。松山君、石川君に次ぐ選手がどんどん出て来てほしいなぁ・・・。勇太とか勇作とかには頑張ってほしいですよね。

 

83年の私は、歯科大の最終学年でしたが、ゴルフばかりやっていたために、臨床の単位が大幅に不足していまして、6月に卒業出来るかどうか怪しいところでした。そんな不安と戦いながらあのハワイアンオープンを見ていたことも思い出しました。

 

最近やっと、「卒業出来ない!」とか、「試験に遅刻した!」とか言う夢を見なくなって来たところです。あぁ怖い夢だったなぁ・・・。

 

 

 カテゴリ:アメリカの思い出, スポーツの話

Is it taken?

大学時代の友人のMさん(年上で、歯医者ではありません)が治療に来ていまして、彼との会話の中で昔の事を思い出しました。

 

歯科大に入る前の4大の時の友人ですが、彼はアメリカ生活が長かったことと、帰国してからも外国の会社と国際電話でビジネスをして来ましたこともあり、私よりはるかに英語は上手です。

 

治療中に「痛くない?」と聞きますと、口がふさがっていますから、首を振って答えます。日本語だと、痛くないときは「うん、痛くないよ」と肯定文で答えますが、英語だと「No it doesn`t hurt」(いや、痛くないよ)と否定形で答えます。

 

中学の英語で習いましたよね。否定疑問文に対する答え方が日本語と英語では違って来ます。(逆になりますね)

 

Mさんのように英語を使うことが多い人は日本語のときも英語のような答え方をしてしまうことがありますね。「痛くない?」と聞くと、首を横に振ります。No、痛くないよ、と答えているのです。癖になってしまっているんですね。

 

そんな事を考えていたら、学生時代に非常に恥ずかしい経験をしたことが思い出されました。

 

アメリカに行ったばかりのころ、学校の体育館であったり、教会だったり、時々集会がありました。遅れて行くと、空席を見つけるのが難しくなります。

 

空いている席を見つけ、隣に座っていた可愛い女子学生に「ここ、空いてます?」と聞いたつもりで「Is it?」と言うと、「Yes」と言われました。じゃあ、と思い座りますと怪訝な表情で(「何?こいつ?」みたいな感じ)でにらまれました。

 

じきに彼女の友達が来て、その席をどかされました。そのあとも暫く訳がわからず、同じ失敗をしてしまいました。

 

全く英語出来ませんでしたからね。何か言われても聞き取れませんから、なぜなのか理解できませんでした。暫くしてから、英語では「この席空いてますか?」とは聞かずに、「この席は埋まっていますか?」という言い方で聞くのだと言う事を知り、やっと納得です。

 

「この席埋まってるっ!」て言ってるのに私が座ってしまうわけだから、「変な奴」と思われても仕方なかったですね。

 

「Is this seat taken?」とか、「Is it taken?」と聞くんだったんですね。国によって、言葉によって表現の仕方が逆になることがあるというのも面白いですね。きっと、もっともっと興味深い違いがいろんな文化や言語にはあるのでしょう。

 

そんなわけで、アメリカに行った頃の私は「変な奴」と皆に思われていたかもしれません。同じような恥ずかしい思いをしたこと、多々あります。

 

寮の廊下で、すれ違った同級生に「How`s it goin`?」と言われ、これは単なる「調子どうだい!」みたいなカジュアルな挨拶なんだけど、そんなことも知らず、おまけによく聞きとれず、「where are you going?」と言われたと思い、「今から体育館に行くよ」とか、とんちんかんな答えをして、またまた「なんだこいつ?」みたいな目で見られたり・・・。

 

あのころ、恥をいっぱいかいたおかげで、かなり鈍感になりまして、日本に帰ってから友達に「変な奴」と思われるようになってしまいました。ちょっとしたことは気にしなくなってしまいましたから・・・。

 

恥ずかしいことばかりでなく、言葉が出来なかった為に、くやしい思いをしたこと、腹が立つこともいっぱいありました。でもまた、それにもかかわらず、よくしてくれた人たちの心優しさに感謝したこともいっぱいありました。

 

いまとなっては、どれも懐かしい、遠い思い出になりました。Mさんの治療していて、そんな事思い出しました。

 

 カテゴリ:アメリカの思い出

Georgia on my mind と Masters

ときおりゴルフのマスターズ・トーナメントのテーマソングがTVから流れて来ます。マスターズ・ウィークが近づいて来ているのですね。

 

初めて聴いたときは特に印象はなかったのですが、毎年聴いているうちに好きになって来ました。歌詞も、かつての名選手の名前であったり、伝説的なジーン・サラゼンのダブルイーグルの事などが盛り込まれていたりして、マスターズだなぁ、と思う曲です。

 

私がアメリカで学生生活をしていた1970年代には、マスターズの前週に同じジョージア州のアトランタで「アトランタ・クラッシック」と言うゴルフ・トーナメントが開催されていました。1967年から始まったそうです。

 

アメリカのTV局はスポーツ番組でも音楽をセンスよく使って演出します。NBAのプレーオフなんかも音楽の使い方が見事でした。このアトランタ・クラッシックのテーマソングには「Georgia on my mind」(我が心のジョージア)が使われていました。

 

番組のイントロで、陽炎が立ちのぼるような暑いアトランタの大地を遠くから一人の男が歩いてくるのが見えます。ゴルファーのようです。けだるい南部の暑さの中、かげろうに揺れながらゴルファーが歩いてくる。

 

そこにけだるそうな歌いぶりで「ジョーージァ・・・・、」と歌が流れてきます。いやぁ・・・・・、かっこよかったです!

 

タワーレコードに行ってドーナツ盤を買いました。歌手はウィリー・ネルソンでした。「On the Road Again」とか大好きでしたが、あのウィリーだったんだなぁ・・・、と軽く思っただけでしたが。

 

その頃はジャズも知らないし、レイ・チャールズの事も名前を知っている程度でしたから、この「我が心のジョージア」はウィリーの歌だと思い込みました。すぐ有名な曲だったことを知るようになりましたが・・・。

 

imgresウィリーはレイや、ウィントン・マルサリスともコラボしていますね。

 

だいぶ後になってから、この曲の入っていたウィリーの「スターダスト」と言うLPも買いました。そこらへんからジャズのスタンダードっていいなぁ・・・、と思うようになったのかもしれません。

 

さてこのころはまだマスターズにはテーマソングがありませんでした。ある年に「Augusta」と言う歌を使うようになり、それからずっと使われています。

 

今回ちょっとチェックしてみたら、デイヴ・ロギンスと言うシンガーソングライターが作って歌っているそうです。ロギンスと聞いてもしや・・・、と思いましたが、やはりあのケニー・ロギンスの親戚(いとこだそうです)でした。

 

音楽に詳しい方はご存じなんでしょうが、私はついこの間はじめて知りました。結構有名なカントリーの歌手だそうで、他のミュージシャンにも楽曲を提供したりしていたらしいです。

 

それはさておき、ここまで長々と書いてきた理由はと言いますと、なぜマスターズのテーマ曲が作られたのか?ということを話したかったからなのです。

 

私の個人的な感想ですが、おそらくマスターズを中継していたテレビ局や、オーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブのマスターズ委員会の方々は、前週に行われていたアトランタ・クラッシックのあの歌を聴いて、うちも負けてはいられない、と考えたに違いないと私は思っているのです。

 

そしてロギンスに依頼してあのテーマソングが出来たんだろうと私は勝手に信じています。本当のところは知りませんが、それくらいあの中継のイントロ、エンディングに流れるウィリーのGeorgiaはかっこよかったですね、それと一緒にながす映像と共にです。

 

アトランタ・クラッシックはその後も名前や場所を変えて続いていました。最後はAT&T・ゴルフ・クラッシックという名前になり、今田竜二選手が2008年にその試合でPGA初優勝を飾りました。

 

実はその試合がアトランタ・クラッシックから始まった長い歴史を持ったトーナメントの最後の試合になりました。(後のAT&Tナショナルは別のトーナメントだそうです)

 

もう今は「Georgia on my mind」が流されることはなくなり、マスターズのテーマソング「Augusta」が名曲となってマスターズウィークの到来を私たちに知らせてくれます。

 

 

 カテゴリ:アメリカの思い出, スポーツの話, 音楽の話

Big-O オスカー・ロバートソン

先日バスケのことを書いたらいろいろ思い出してしまいました。

 

私がアメリカに初めて行った時、まず大学の寮に入りました。1973年当時はもちろん携帯電話などありません。各部屋に電話もないし、個人的にテレビを持っている学生もいません。

 

寮のロビーにテレビが置いてあり、みんなでワイワイ言いながら見ました。次の年の春、NBAのプレーオフシーズンですが、ある晩テレビの前にみんな集まって大騒ぎしながら見ていました。

 

なにかと思ったら、ボストン・セルティックス対ミルウォーキー・バックスの決勝戦だったらしいです。私は日本にいるときからバスケットボールは好きで遊びでは、やっていましたが、その程度だったのでNBAの知識は殆どありませんでした。

 

学生寮のロビーのテレビの前で学生たちが盛り上がっている姿を見て、NBAの人気に驚いたこと、そして、そのすごいプレーに仰天して私もみんなにまじって観戦しました。

 

バックスのセンターはあのカリーム・アブドゥル・ジャバー、ボストンのセンターはデイブ・コゥエンスでした。コゥエンスはたしか6フィート・8インチ、2メートル2~3センチです。今はこんなに小さいセンタープレーヤーはNBAにはいませんね。

 

ボストンのパワーフォワードはジョン・ハヴェリチェック、彼は6フィート5インチ、今ではガードでも小さいほうかもしれません。

 

そのあとバスケ大好き人間になった私はいろいろな事を知り、NBAの知識が増えて行きました。そしてずいぶんあとに発見したことは、なんとあのゲームはBig-Oことオスカーロバートソンのラストゲームだった可能性が高いんです!

tumblr_m8vnxwHbLB1qd6wt5o1_500ジャバーはまだゴーグルをしていませんね、後ろにいるのがBig-Oです。

NBAのことをよく知るようになって、オスカー・ロバートソンと云う伝説的な選手がいたことを知り、ライブで彼のプレーを見たかったなぁ、とずっと思っていたのですが、実は彼の引退前の最後の試合があのボストンとのプレーオフだったのですね。リアルタイムで彼のプレーを見ていたことに気づいていなかったんです。

 

カリームはあのフックショットが印象的でよく覚えていますが、アシストとかガードのプレーに関しては知識ゼロでしたから、残念ながらBig-Oの印象は残っていません。

 

Big-Oは6フィート・5インチ、当時のガードとしてはかなり大型の選手でした、あのころはNBAでも180センチ以下の選手も結構いましたから、のちのマジック・ジョンソンみたいな感じだったんでしょうね。(マジックは確か6フィート9インチくらいでしたか、ガードですが、当時のボストンのセンターより大きかった訳です)

 

トリプル・ダブルを達成した回数はマジックよりはるかに多く(おそらくこの記録はだれも破れないでしょう)なんとダブル・トリプル・ダブルを達成したこともあります。ポイント、リバウンド、アシストすべて20以上・・・・。他には誰もやったことはありません。

 

ウイルト・チェンバレンの一試合に100得点という大記録と共に、もう誰も破れないだろう記録をいくつも作った、まさにレジェンドです。もう一年早くアメリカに行っていればそういう事も知った上で彼のラストゲームを見て感動していたかもしれません。

 

1973~1974シーズンのNBAプレーオフ、私は19歳、初めてNBAの迫力にふれた年でした。

 カテゴリ:アメリカの思い出, スポーツの話

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